湘南アマデウスとともに三十年(3)樋口徹雄さん
湘南アマデウス合奏団では、合唱団・合奏団の創立30周年を記念して、団の創設にご尽力された方々を中心に連続インタビューを行っています。
第三回は樋口徹雄さんです(聴き手:湘南アマデウス合奏団団長・矢後和彦)。
【連載第三回】樋口徹雄さん
(湘南アマデウス合奏団オーボエ奏者、第二代団長[2011-2022年]、二宮町在住)
2023年11月20日・樋口様邸にてインタビュー
――樋口さん、二宮の邸宅にお邪魔して恐縮です。本日はよろしくお願いします。
こちらに「音楽つれづれ話」なる分厚いファイルがありますが、これはどんなものでしょうか。
樋口: 中学生の頃から現在まで音楽について「徒然なるままに」思いを書き記してきたノートです。
高校の同窓会機関誌から依頼されて連載しています。
学校の帰り道に音楽喫茶に立ちよって「田園」を聴いてあこがれた、なんていうことまで書いてあるんです。
――アマデウスに入団されてからも。
樋口:そうそう、ずっと書いてきました。今日はこのノートにも言及して大いに語りましょう。
オーボエをはじめて60年
樋口: 私は大阪の生まれでして、父がクラシック音楽のレコード収集が趣味で、特に父は交響曲「ハフナー」が好きで、しょっちゅうかけていたので憶えてしまいました。それが私とモーツアルトとのつきあいの始まりです。
その後、管南中学というところに進学したのですが、通学路の途中に当時流行していたクラシック喫茶がありましてね、時々窓から立ち聴きしました。
また両親には貧乏家計の中からお金をせびってクラリネットを買ってもらい、吹奏楽部でクラリネットを吹いていたのもその頃です。
本当に音楽に目覚めたのは府立北野高校に入ってからです。
北野高校は進学校として知られていますが、当時としては非常に珍しく高校にオーケストラ部があったんです。
当時オーケストラが盛んだった京都大学に進学した先輩たちがよく教えに来てくれました。
北野高校に入って迷わずクラリネットを本格的にやり始めましたが、当時のオーケストラ部はお金がなかったものですから、オーボエやファゴットなどの高額の楽器を買う余裕がなかったんですね。そこで私がクラリネットでオーボエのパートを読み替えて演奏するなんてことをよくやりました。
そうこうしている間に先輩から「お前のクラリネットの音色はだんだんオーボエみたいになって来たな」などと言われました(笑)。
コピー機もなかった時代ですから、手書きで転調・写譜をやることも大変得意になりました。
北野高校ではモーツァルトを演奏会で演奏することはありませんでしたが、一学年下にピアノがうまい生徒がいた事もあり「ピアノ協奏曲20番」を何度か通しました。
オーボエとの本当の出会いは、1963年に東京工業大学に入学してからです。
大学のオケを訪ねたところ、先輩から「君は唇の形が良い」(笑)ということで「フルートをやれ」と言われましたが、はっきりと断りました。
そんなにやりたいならということで、晴れてオーボエをやることになった次第です。
そこでオケの倉庫から取り出されてきたのが何とビックリ、期待していたオーボエとはまったく異なるものでした。
管体には黒檀が使われているものの、長い一本仕立てでベルとつなぐだけ、孔部はリングもないオープンキーが殆どです。
ピッチは低く、リードを短くして音程調整するという代物でした。先輩からは「君が頑張ったら夏にはオーボエを買ってあげよう」などと励まして貰いました。
結局、半年ほどたってフランス・ルブラン製のオーボエを買ってもらって、そこからオーボエに本格的に取り組みました。
その後、大学四年の時にマイオーボエを手に入れまして、それ以来、都合6回持ち換えました。
このマイオーボエには逸話があります。
私は木管アンサンブルを二年上の先輩方と一緒に組んで楽しんでいました。
現・団員でファゴットを吹いておられる牧野進一さんもこの先輩の一人です。この先輩方はお金持ちの集まりでして、自分の楽器以外に数人でオーボエを持っていらしたんですよ。
それがとても良く使い込まれたヘッケルの素晴らしいオーボエでして、私は大学4年の時から使わせてもらいました。
ところがある時、この先輩方と伊豆で合宿をやりましてね、気分が良いので浜辺で木管五重奏をやろうということになりました。
その際に、借りていたオーボエの下管がスルーと抜け落ちて海水に浸かってしまいましてね(笑)。
当然ながら「お前が修理しろ」ということになり、その後オーバーホールやメンテナンスを私がずっとやっていたことから、最後には先輩から「よし、もうお前のものだ」ということになって楽器をもらい受けたんです(笑)。
大学オケではモーツァルトはあまり演奏しませんでしたが、東京女子大学にエキストラに招かれたことがあり、当時早稲田オケにいた呉山平換さん(後に京響Obトップ)という素晴らしいオーボエ奏者と一緒にモーツァルトの「交響曲40番」をやったのをよく憶えています。
ともあれ、18歳で大学に入学して以来60年以上にわたりオーボエを吹いてきました。オーボエも還暦超えですね(笑)。
――こちらの写真は東工大在学中の演奏会ですね。
樋口:そう、この写真は東工大オケの定期演奏会の様子です。
私は1967年に関西ペイントに就職したのですが、すぐに東工大に研究生として派遣され、またしても東工大オケで遊ぶ機会に恵まれました。
この時は26才で、東京文化会館大ホールでブラームの交響曲4番をやりました。
結局、この時が私にとって2度目の卒業演奏会になりました。1回目も同じ東京文化会館大ホールでチャイコフスキーの交響曲「悲愴」でした。
藤響で過ごした40年
――大学卒業後について伺います。
樋口:大学を卒業してから関西ペイントの平塚研究所に赴任し、直後に会社から東工大派遣命令を受けたのは前述の通りでして、派遣終了の1970年に藤沢市民交響楽団(藤響)に入りました。
ちょうど藤響がベートーヴェン・チクルスをやっていた頃です。
ベートーヴェンばかりの定演を年間5回やるというハードスケジュールでした。
以来藤響には足かけ40年在籍したことになります。
――藤響はいかがでしたか。
樋口:大きな曲をやる、というのも藤響のひとつの流れですね。
当時の藤響は40人くらいの団体でしたが今や100人を超えていますね。
この藤響との関わりでモーツァルトについて一番印象に残っているのが、1973年の第一回「藤沢市民オペラ」なんです。
福永陽一郎先生の指揮で「フィガロの結婚」をやりました。 歌手も立川清登、伊藤京子といった当代随一の方々ばかりで、徹底的な練習でした。
この時に私はモーツァルトの真髄に触れたという思いがあります。
いまでも覚えているのは「スザンナのアリア」で、ソプラノとオーボエが絡むフェルマータがありまして、いつタクトが下りるか、歌手はいつフェルマータを終えるか、ピットのなかからハラハラしながら演奏しました。
オペラ演奏の醍醐味と言ってよいでしょう。この「フィガロの結婚」演奏の経験を通じて、軽妙洒脱なモーツァルトの世界にすっかり魅了されました。
今回湘南アマデウス合奏団の第53回定期演奏会で荘厳ミサ曲を演奏しましたが、その中のアニウスデイの旋律が「スザンナのアリア」の原型でして、両方演奏出来た事に強い喜びを感じています。
それ以来私は在籍期間中の藤沢市民オペラにはほとんどすべて出演しました。
――藤響入団後しばらくしてアメリカに転勤なさいました。
樋口:はい、1989年にアメリカに転勤になりまして、デュポンと合弁会社を作って6年間向こうで過ごしました。
デトロイトの郊外でしたが、滞在先でコミュニティー・オーケストラ、いわゆる市民楽団に入りました。
この楽団に入団する時のオーディションの結果、「首席をやれ」といわれましてね。
喜んでいたら、市民楽団でも首席手当が出る事が分りました。年間千ドル強ですがね。
ところがビザの関係で仕事以外の手当は受け取ってはいけない。しかし、楽団側はきまりだから受け取れという。
そこで上司のサジェッションを仰いで、手当を楽団に寄付しました。
そうしたら、地元の新聞に寄付の記事が載りまして、GMやフォードの社長を抜いて私が寄付額のトップ、「プラチナ・ポジション」になってしまったんですよ(笑)。合弁の社長からも「タダで会社を宣伝してくれた」と褒められました(笑)。
湘南アマデウスの創設へ――初期の団の様子
――ご帰国後に湘南モーツァルト愛好会との接点が出来ましたね。
樋口:1995年に帰国して、早速、藤響に連絡を取りましたが満席で、しばらくのあいだオケの浪人生活をしていたのです。
そのなかで牧野陽子さんのインタビューにあるように、牧野さんから「湘南モーツァルト愛好会で戴冠式ミサをやるので参加しませんか」とお誘いの電話をいただきました。
そのお電話で忘れられないのは「このオケは紳士淑女のみなさんで、温かい雰囲気ですよ」という言葉です。すぐにお引き受けしました。
たしかに、湘南モーツァルト愛好会の合唱を指揮されていた先生とは、いろいろと複雑なやりとりもありました。
私もザッツについてこの先生に直接、申し上げたことがありましたが、指揮棒を投げ出されましたね…。
なお中島良能先生は、この先生とは別で、この時は前座の曲だけを振り、第二回から合奏団の指揮をなさいました。
――いまの団規約にある「紳士淑女」という文言はこのお電話から来ているのですね。
さて、湘南モーツァルト愛好会から湘南アマデウスへの流れはどうご覧になりましたか。
樋口:ここは大事なところで、第一回の演奏会が成功裡に終わり、「せっかくだから演奏会を続けませんか」という話が持ち上がりました。
この時に、合奏団の継続を主張したのが、管楽器ではホルンの冨坂さん、ファゴットの志村さん、そして私、弦楽器ではビオラの村山さん、チェロの蛯子さんあたりでした。
この時、初代団長になられる大森さんもいらっしゃいましたが、大森さんは貴公子然とされていて、当時から「侍従長」などと呼ばれていました(笑)。
これらのメンバーで湘南アマデウス合奏団が立ち上がりました。
――団発足の当初の思い出はいかがでしょうか。
樋口:「モーツァルトの交響曲全曲とピアノ協奏曲全曲をやりましょう」ということを語り合ったんです。
これらの全曲演奏をコンセプトにして、規約にも書こうということになりました。
実際問題としては、モーツァルトの交響曲は初期には贋作の疑いのあるものもありますし、ピアノ協奏曲は二台・三台のピアノのためのものもありますので、全曲演奏することは無理なのですが「やれるだけはやろう」という精神は引き継がれていると思います。
なおこの時点では、湘南モーツァルト愛好会が解散してから合唱団と合奏団は別々に立ち上がっており、宗教曲をやるというコンセプトは合奏団の中にまだ明確にありませんでした。
合唱団が立ち上がってから、ファゴットの志村さんの奥様が合唱団にいらしたり、ビオラの村山さんが片瀬教会のつながりで合唱団の赤羽根団長とお親しかったりしたという事情があり、そこから合唱団との連携が生まれてきたのでしょう。
――こちらに湘南モーツァルト愛好会合奏団の名簿がありますが[ウェブ上では非表示]、この方々は全員が湘南アマデウス合奏団に移ったのですか。
樋口:結団の当初は全員が湘南アマデウス合奏団に移りましたが、半年くらいの間でお辞めになった方もいました。
結構、変遷がありましたね。当時学生だった人や、プロになった方など、実は有名な人も多かったんです。
楽器の分担もまちまちで、志村さんはファゴットとフルートを兼ねていらしたし、冨坂さんは当初はトランペット奏者でしたがその後、モーツァルトをやりたいということでホルンに転向しました。
団の創設に貢献された方として、村山さんの思い出はつきないですね。
村山さんは、とても経済観念の優れた方で、団で譜面を買うお金がない、という話になったときに、村山さんがスコアを拡大コピーして、各パートの部分をカットして別々の紙に貼り付けてパート譜面を作る、なんてことをやられました(笑)。
また、当時は木管だけの合宿練習なんかもやりましてね、その際に弦楽器の村山さんがなぜか木管合宿に参加されたのです。
「一緒に練習しませんか」と声かけしても、ともかくジーっと待っているんです。
実は村山さんはお酒を仕入れていらして、練習が終わったら皆と飲みたい、それまでは練習の邪魔はしない、ということだったんです(笑)。
団の発展と新しい展開――田部井先生の招聘
――団長は大森さん、常任指揮者は中島良能先生でした。
樋口:私自身は会社も忙しい現役ですし、口出しだけで宜しければと副団長をお受けしました。
大森団長は総務の実務もほぼ全て担当されましてね。こうした名簿類の全部を大森さんが作られました。
創団13年目2010年のある日、突然大森さんから「しんどくなった、助けてくれ」と請われて団長を引き受ける事としました。
ただし志村さんに実務面を全面的にお手伝いいただく条件付です。
その後長きにわたり団長業務を続ける事が出来たのはまさに志村さんの甚大な支援のおかげです。
私はアメリカから帰国後、しばらくして藤響にも再入団しました。
この藤響とのかかわりが、のちに当団の常任指揮者になられる田部井先生の招聘につながりました。
あるとき田部井先生に「シェヘラザード」を演奏指導していただいたおりに、先生と意気投合したんです。そしてそれが機会で湘南アマデウスの指導をお願いしたのが始まりです。
たしか田部井先生の湘南アマデウス合奏団での初デビューは合唱団といっしょに当団有志がヨーロッパ演奏旅行に行った時の帰国報告演奏会だったと思います。
団長になってから5年くらいの間、私は藤響と二足のわらじを履いていたのですが、当団に専念するため藤響を辞めました。
「断腸」の思いで長年在籍した藤響を退団して「団長」に専念したということです(笑)。
――田部井先生の招聘に至るまでは、指揮者も一定ではなく、曲目も管楽版を取り入れたりして、今一つ団のコンセプトが固まりませんでした。
意外と大変な時期だったのではないでしょうか。
樋口:そうですね。歴代の指揮者招聘にほぼすべて関わりましたが、お忙しい先生もいらして練習日程が定まらないこともありました。
曲の解釈・テンポなど認識の隔たり調整でも大変なこともありました。
管楽版を取り入れた背景には、実は弦楽器の負担軽減対策があったのです。
今でこそ当団はモーツァルトの宗教曲はおおむねレパートリーになっていますが、当時は初めて「レクイエム」をやるなど、弦楽器としても大変な時期でもあったわけです。この負担を軽減するためということで、プログラム前半に管楽バージョンの曲を取り入れたりしましたが、評価は分かれるかもしれません。
団長時代を振り返って――伝統と進化と
――湘南アマデウスの団員リクルートにも樋口さんは貢献されました。
樋口:私が関西ペイント在職中は、会社のいろんな方を当団に紹介してきました。
思い出に残っているひとりが佐野真さん[元・団員、ヴァイオリン奏者]です。
彼は北野高校で私の後輩にもあたり、入団してもらいました。まじめな好青年でしたが、さきにふれた村山さんに気に入られて、練習後は二人で遅くまで飲みに連れ歩くもので、いい加減にしろ、と注意したこともあります(笑)。
佐野さんには長年当団の団内演奏会を仕切っていただくなど、団に貢献いただきました。
後列左から4人目が樋口さん、その右隣が冨坂さん、その右が佐野真さん。
前列右端が大森さん、左隣に牧野陽子さん、その左が加藤(現・佐野)伸子さん。
――ここに佐野さんや村山さんが映った良い写真がありますね。
樋口:この写真は1999年、江ノ島女性センターで「ピアノ協奏曲20番」を定期演奏会で演奏した時のものです。
当時は、団で湘南地域のピアニストに呼びかけて協奏曲演奏のオーディションをやりまして、多数の応募者からソリストを選んでいたんです。
そのオーディションで一位になったピアニストが中心にいらっしゃる女性の方、加藤伸子さんです。
これは江ノ島海岸のレストラン「レッドロブスター」で打ち上げを行った時の様子ですが、ここに佐野さんがいますね。
この時に佐野さんがピアニストの伸子さんを見染めたんでしょう。その3年後に彼女は佐野さんと結婚したんです。
以来、佐野夫妻からは盆暮れには欠かさず付け届けをいただいています(笑)。
――今にして思えば、村山さん・蛯子さんのような団の中心にいた方が早くお亡くなりになり、佐野さん・冨坂さんといった有為な若手だった方が転勤などで退団されてしまわれたのは残念でした。
樋口:そうですね。冨坂さんは定演プログラムに「疾風怒濤のモーツァルト」などの副題を付けるのが得意でね。団内演奏会も立ち上げられた方でした。
――他方で、樋口さんの時代には指揮者先生の謝礼問題も解決されたり、練習拠点も村岡から済美館・Fプレイスに移されたりと、大きな功績がありました。
樋口:村岡公民館からの移転にはティンパニの置き場所という問題がありました。
ティンパニをどうするか、ということは当団の今後の重要な課題ですね。
――演奏会形式のオペラ「フィガロの結婚」など斬新な企画もありましたね。
樋口:たしかに演奏会形式のオペラをやりだしたのは私が団長だったときですね。
指揮者の河地先生を招聘するなど大変でしたが、副指揮者の方とは長く折衝できて良かったです。
団員数も多く、みなさんもまだ若くて、振り返れば当団の最良の時期だったかもしれません。
――取り上げる曲もモーツァルト以外に広がりました。
樋口:これは管楽器の出演機会の問題もありましてね。
モーツァルトを基本にしながらも、ハイドン、ベートーヴェン、シューベルトなどだいぶ広がりました。
ベートーヴェンは「第九」もやりまして、2024年の「田園」で交響曲は完遂ですね。
――最後に、これからの団のあり方について一言いかがでしょうか。
樋口: 以前は団にお金がなかったので団内の名手の独奏でモーツァルトの協奏曲をやるという話もありました。
これはその後、立ち消えになりましたが、これからまた藤沢市民会館の建て替えなど新しい時勢に即して小規模な演奏会なども検討されているようですので、いろんな可能性を考えていくことも大事な事でしょう。
現在の団のみなさんには、私の仕事を引き継いでいただき、感謝しています。
モーツァルトは譜面をみると易しいですが、音楽的には難しいですね。
無駄な音がひとつもない。
高校時代に、さきにふれたピアノ協奏曲の伴奏を担当したときに、オーボエのロングトーンがあって、この音がひとつなければ音楽が成り立たない、ということに気づきました。
これからもこのモーツァルトと付き合っていきたいですね。
――モーツァルトに欠かせないロングトーンの一音のごとく、樋口さんも引き続き当団に欠かせない音色を響かせて下さい。
本日はありがとうございました。
樋口:自家製のビールが出来上がったので、飲んでいって下さい(笑)。