湘南アマデウスとともに三十年(4)志村一郎さん

湘南アマデウス合奏団では、合唱団・合奏団の創立30周年を記念して、団の創設にご尽力された方々を中心に連続インタビューを行っています。第四回は志村一郎さんです(聴き手:湘南アマデウス合奏団団長・矢後和彦)。

【連載第四回】志村一郎さん  

(湘南アマデウス合奏団ファゴット奏者、鎌倉市在住)

2024年1月7日・志村様邸にてインタビュー

――志村さん、あけましておめでとうございます。本日はよろしくお願いします。

志村:よろしくお願いします。

合唱・フルートからファゴットへ

――まず志村さんとファゴットの出会いをうかがいます。

志村:私がファゴットを始めたのは、慶應義塾大学のワグネルソサエティ・オーケストラに入団してからです。
それまではずっと合唱を続けておりまして、湘南高校在学中も合唱部で指揮を担当しておりました。
この湘南高校合唱部は多士済々で、六年上の先輩にダークダックスの金井政幸さん(通称ゾーさん)、三年上の先輩には作曲家の湯山昭さんがおられました。

湘南高校合唱団OBOG会での湯山昭さんと志村さん(1972年10月)

慶應のワグネルでは何か新しく楽器をやりたいと思っていたところ、ちょうど湘南高校の先輩がフルートを貸してくれてそれでフルートをまずやることになったんです。
この先輩が本鵠沼にいらして、毎週その先輩の家に行ってフルートを一から教えてもらいました。
とはいえ最初の頃は全く吹けませんのでワグネルで演奏旅行に行ってもシンバルやトライアングルといった打楽器専門でした(笑)。
そうこうしているうちにフルートに本格的にのめり込んで、東京中野の野方にあったムラマツフルートの工場まで出かけて自分のネーム入りのフルートを作ってもらいました。
ところがワグネルにはフルートの上手な人がいっぱいいて、吉田雅夫さんの一番弟子のような人や、N響に進んだ植村さんというような人がひしめいていました。

そこで、当時メンバーがいなかったファゴットに目を付けたところ、指使いがフルートとほとんど同じで、又C管なので楽譜の読み替えに頭を使わなくてよい(笑)。
そこで仲間たちと神田の古楽器屋に出かけてファゴットを探したところリントンという、米軍の軍楽隊からの出物があったんです。
これがよく鳴る楽器で、どんどん吹けるようになりました。
当時はファゴットをやる人も少なかったのでエキストラにも引っ張りだこで、大学卒業まで御機嫌でファゴットを吹くことができました。

就職先は三菱重工でしたが、関西で勤務することになり、ファゴットは独身寮に持ち込むには大きすぎたのでふたたびフルートを持っていき、寮の屋上で吹いていました。
その後は仕事一筋でしたが、キャタピラー三菱の立ち上げとともに東京に戻ることになり、だいぶ経ってからファゴットに戻り、しばらくは大学のOBオケに出ていました。
このあたりから湘南アマデウスとの関わりが始まります。50歳くらいでしたね。

モーツァルト愛好会から湘南アマデウス合唱団・合奏団へ

――志村さんとモーツァルト愛好会合奏団の関わりは、どういうところから始まったんでしょうか。

志村:私は赤羽根さん[湘南アマデウス合唱団初代団長、故人]のお誘いでモーツァルト愛好会に入り、年末の懇親会でフルートを吹いたりしたこともありました。
当時、宮代さんという女性がいらしてピアノを伴奏してもらったのですが、彼女は湘南高校の後輩にもあたり、ピアノも弾くので、てっきり合唱部など音楽関係のクラブ活動にいた人かと思っていたところ、実は水泳部だったという逸話もあります(笑)。
その後、親松さんのインタビューにもあるようにモーツァルト愛好会の中で合奏団を作ろうという機運が盛り上がりましたが、その時には、私はまだ参加していません。
モーツァルト愛好会の合奏団が出来上がってからの参加でした。
樋口さんのインタビューにあったモーツァルト愛好会合奏団の指揮者とのやりとりの局面では、私はすでに参加しておりました。

湘南モーツァルト愛好会のパーティ、1995年頃

――その後、モーツァルト愛好会はどうなったのでしょうか。

志村:愛好会はまずコーラスだけを立ち上げたんです。
この愛好会のコーラスのうち、ほとんどのメンバーが湘南アマデウス合唱団に移りましたが、愛好会に残った方も少しおられました。
この愛好会のコーラスの方々は数年前まで藤沢市の合唱祭にも出ておられました。
今やっていられるかどうかは分かりません。

愛好会のコーラスは1996年に親松さんのインタビューにありますような戴冠式ミサをやることになりました。
この時の指揮者が内海さんという茅ヶ崎の合唱団「早蕨会」の指揮者だったんです。地元合唱界の名士でしたが、指揮の振り方をめぐってオケのメンバーから、「よく判らない」などと文句が出たりして、このようなことの積み重ねがのちの湘南アマデウス合唱団・合奏団への分離設立ということにつながったのかも知れません。

とはいえ私もモーツァルト愛好会にはしばらく在籍していました。
愛好会慣例のケッヘル番号ももらいましたよ。K.292という「ファゴットとチェロのためのソナタ」です。

――赤羽根さんとの関わりも重要ですね。

志村:私は赤羽根さんにはずいぶんとお世話になりました。
赤羽根さんは合唱の世界にいらした方ですが、オーケストラにも深い理解がありました。
合唱とオーケストラは、そもそもカルチャーが異なるんですね。これをまとめていく上で赤羽根さんの功績は非常に大きなものでした。
赤羽根さんあっての合唱団・合奏団ということは忘れないでほしいですね。

合唱団と合奏団――ふたつのカルチャー

――モーツァルト愛好会から湘南アマデウス合唱団・合奏団が出来上がる際は、合唱・合奏が同時に成立・分化したんでしょうか。

志村:実はモーツァルト愛好会から独立した際に合唱団と合奏団はまだ完全に分化した状態ではなく、運営にあたっては両団の運営委員が合同で実行委員会を開いていた時期がありました。
演奏曲目も合唱と合奏の両方を含んだもので、今でいう秋の定期演奏会に近い形だったわけです。
ただ「合同」というからにはそもそも合唱団・合奏団はすでに別々に成立していたわけで、団としては別で、運営は合同で、というような区切りだったと思われます。ただし、こういう時期は短かったですね。

――この後、合唱団と合奏団の関わりはどのように進展していくのでしょうか。

志村:団としては別々でも合同演奏会をやるという慣行は定着しました。
ただしこの合同運営という形は初期の1~2回で、以降合同演奏会は合唱団が主体の運営となり、それとは別に合奏団が単独に年1回の演奏会をやるという慣行ができました。
以上のような状況下、合奏団団長は大森さん、合唱団団長は赤羽根さん、こういう形でスタートしましたが、合唱団と合奏団が別々の運営となったことにより、各々自団のことを中心に考えるようになってきて、一時はあまり良好な関係が保てなくなった時期もありました。
しかし、このような時期を経てその後徐々に両団の関係は良好なものになっていきます。

合唱団・合奏団の関係が改善していったひとつの背景として、合奏団が合唱団から協賛金を頂戴できるようになったことがありました。
この協賛金の最初の名目はティンパニの購入資金ということだったんです。
ところがティンパニの保管場所がなかなか見つからず、仮に購入しても置き場所がないので、この協賛金の根拠は薄れてしまいます。
しかしだからといって合唱団は「それまでのお金を返せ」とは言わず、又春の定演の際のお祝い金も、ある時期から頂戴できるようになりました。
なお協賛金については、その後オーケストラに不可欠なエキストラ代の補助ということに形を変えて今に至っています。

ここでも合唱団の赤羽根さんの役割がありました。
当時、合唱団のメンバーは合奏団のことを「伴奏」と称することがあったのですが、赤羽根さんはこれを諫めて「伴奏と言ってはいけない、共演なんだ」ということをしきりとおっしゃっていました。

――合唱団と合奏団を取り持つなかで、志村さんも重要な役割を果たされたのではないでしょうか。

志村:私がたまたま合唱と合奏という、異なるカルチャー両方の経験者だったということでしょうか。ワグネルの時代も合唱と合奏は仲が悪かったね(笑)。
しかし、湘南アマデウス合唱団にワグネルの男性コーラス出身の者が多いときは5人ぐらいいて、現・合唱団団長の小笠原さんもワグネル出身ですが、アマデウスという同じ土壌の中で交流を続けているとお互いの考え方も解ってきて、合唱・合奏のカルチャーの違いも徐々に理解できるようになってきました。
話は逸れますが、あのダークダックスの高見沢さん(通称パクさん)もワグネル男声コーラス出身で、藤沢在住だったご縁で合唱仲間が集った際、私が高見沢さんのピアノ演奏の譜めくりをしたこともありましたよ。

湘南アマデウス合奏団の発展――ふたりの団長の思い出

――合奏団が大きく進展していく時代はどうごらんになりましたか。

志村:大森団長の時代、そして樋口団長の時代と、それぞれ団長の個性が非常に際立って良かったと思います。
おふたりの個性は、正反対とはいわないまでも非常に対照的で、どちらも良い。
大森団長は非常に地道に緻密にことを進め、樋口団長には突飛な飛躍と創造がありました。
それぞれの良さが相まって団の発展につながってきたのだと思います。

――ここで大森団長から樋口団長に移る時代に、常任指揮者・中島先生の交代という節目がありました。

志村:わずか数人の弦アンサンブルから現在のような形のオーケストラまでになってこられたのは一途に中島先生のお陰によるものと大変感謝しています。
常任指揮者をお辞めになると表明されたのは、2004年2月でしたが、一応の目途がついたことと、御自身の活躍の場が広がってきたこと等を考慮されてのことだったと思います。

――中島先生退任の後、客演指揮者が続いてからようやく田部井先生をお迎えできました。

志村:田部井先生をお迎えできたのは、これは樋口団長の大きな功績ですね。
中島先生退任後、大森団長時代のしばらくの間、客演指揮者でつなぐ時代が続き、それなりのメリットもありましたが、一方専門的すぎてアマチュアオケには不向きな方もいらっしゃいました。

――団内演奏会が始まった思い出はいかがでしょうか。

志村:団内演奏会を考案したのは冨坂さん[元・団員、ホルン奏者]でしたね。なかなか良いことを考えてくれました。
はじめは横浜のイギリス館でやり、その後藤沢のル・クラシックなどでもやりましたが、しばらく団内演奏会をやらない時期が続きました。
それにつけても冨坂さんの貢献は思い出深いですね。
現在は大阪におられるようでこの間ちょっとお電話でお話しすることができました。
あと、この時期の団を献身的に支えてくれた人として現・フルート奏者の堀内さんの名前を外することもできませんね。

アマデウスの原点を大切に――これからの団に望むこと

――最近の団の様子はいかがでしょうか。

志村:団の高齢化ということはよく言われますが、合唱団と比べてると合奏団はまだ若く、新しい団員の方もどんどん入っている最近の傾向は嬉しく思っています。
新しく入団してくる方はどなたも素晴らしい方ばかりですが、今後も入団手続きにおいて技術のみではなく人柄も考慮するということを忘れずに進めていくことが必要でしょう。当団の大きな特徴は、「人の和」だと思っているので…。

――モーツァルトを中心とするコンセプトは、合唱団・合奏団ともにいかがでしょうか。

志村:合唱団・合奏団とも、モーツァルトを中心にするコンセプトは今後も維持して行くのが良いでしょう。
バッハ、ベートーベン、シューベルト、こういったところに手を伸ばす、あるいはロッシーニさらにはシューマンというようなものまで展開しているようですが、どこかに歯止めが必要なのではないでしょうか。
「定演ではモーツァルトを一曲やればいい」という考えもありますが、あまりにも広げすぎてしまうとアマデウスで音楽をやっている意味がなくなってしまうのではないか。
モーツァルト以外に広げるのであれば、我々よりもうまいオケはいくらでもあるのです。
湘南アマデウス創設の原点を踏み外すことなく、発展していってほしいですね。

――本日はありがとうございました。

志村:ここに「ミサ・ブレヴィス雀のミサ」のCDがあります。
今後、この様な比較的短いミサ曲をやる機会も出てくると思われますので、ご参考までに聴いていって下さい。