湘南アマデウスとともに三十年(1)親松溥子さん
湘南アマデウス合奏団では、合唱団・合奏団の創立30周年を記念して、団の創設にご尽力された方々を中心に連続インタビューを行うこととなりました。第一回は親松溥子さんです(聴き手:湘南アマデウス合奏団団長・矢後和彦)。
【連載第一回】親松溥子さん
(湘南アマデウス合奏団ヴァイオリン奏者、藤沢市みその台在住)
2023年9月17日・済美館にてインタビュー
――親松さん、こんにちは。まずは親松さんがヴァイオリンと出会った経緯、モーツァルトと関わるようになった機縁を伺います。
ヴァイオリンとの出会い、モーツァルトとの出会い
親松:娘が4歳のときヴァイオリンを習わせはじめましてね。
どうせ辞めるだろうと思って、そうなったら楽器がもったいないので、私も習おうかなと(笑)。結局、娘も私もそれ以来、ずっとヴァイオリンは続けています。
モーツァルトはずっと大好きでしたが、こんなことがあったんです。
結婚前に私は会社に勤めていたのですが、ある日銀行に出向いて待合室のようなところで待っていたら『文藝春秋』が置いてあって、何気なく手にとったらそこに作家の永井路子さん[1925-2023年。歴史小説家。『炎環』『北条政子』ほか著書多数。鎌倉市名誉市民]がモーツァルトについて短いコラムを載せておられて、思わず読みふけってしまいました。
コラムに感動してすぐに永井さんにお手紙を書いたんです。そうしたら美しい書体でお返事が来て!
何とイイノホールでコンサートがあるからいらっしゃいとまで書いてあるじゃないですか。
すぐにそこに出向いたら、永井路子さんのご主人の黒板伸夫さん[1923-2015年。歴史家。清泉女子大学教授・醍醐寺霊宝館長]がいらして、演奏会を仕切っておられたんです。
黒板さんはモーツァルト協会に所属されていました。イイノホールには何度も通いましたね。
湘南モーツァルト愛好会の創設
――湘南モーツァルト愛好会の発足はいつ頃ですか。
親松:1990年頃です。
発足から2年くらいかかって、ここにある年末懇親会【図版1・2】を開催し、さらにそれから4年後の1996年に演奏会【図版3】に漕ぎつけました。
活動の内容は、ともかくモーツァルトについて語る、ということで、楽曲やモーツァルトの生涯について実に細かい議論をワイワイとやっていました。
――親松さんは湘南モーツァルト愛好会の創設メンバーでした。この愛好会はどういう経緯でできたのでしょうか。
親松:私にお声かけいただいたのは鎌倉在住の洋画家の林さんという方でした。
この林さんのお嬢様と私がご近所で友だち付き合いをしていたのですが、画家の林さんから「今度、こういうモーツァルト愛好会を作るから参加して」とお誘いいただき、おもしろそうだと思って参加しました。
湘南モーツァルト愛好会は、発起人10人くらいではじまったようです。
モーツァルト研究家の井上太郎さん[1925-2022年。モーツァルト研究家。『モーツァルトのいる街』『レクィエムの歴史』ほか。湘南モーツァルト愛好会名誉会長]、さきにふれた画家の林さんらが中心でした。のちの湘南アマデウス合唱団で団長になられる赤羽根惠吉さん(故人)も創設時からいらっしゃいましたし、リラホールのオーナーの赤池美枝子さんもすばらしいホールを提供して下さいました。
湘南アマデウス合奏団にもいらした村山さん(故人)も発起人ですよ。
村山さんは東京のモーツァルト協会にも特別会員として参加していたんじゃないでしょうか。
湘南モーツァルト愛好会では初回の会合から150人もの方が集まりました。
この愛好会ではその頃、各地に出来ていたさまざまな作曲家の愛好会に倣って、第二回目の会合のときに会員にケッヘル番号を割り当てたんです。
私も「トルコ行進曲」付のソナタ、K.331という栄誉あるケッヘル会員番号をもらいましたよ(笑)。
最盛期には220人くらいが参加していました。みなさん、ものすごく知識がある方ばかりで、重箱の隅をつつくような議論を果てしなく繰り広げていました。
私も海老沢敏[1931年-。音楽学者。国立音楽大学学長。『モーツァルトを聴く』『変貌するモーツァルト』ほか著書多数。日本モーツァルト協会会長]や島田雅彦[1961年-。小説家。『ドンナ・アンナ』『夢遊王国のための音楽』ほか]の本を読み漁って、「モーツァルトがこの曲を書いたのはこういうときだった」というような発見を持ち寄ってみなさんとおしゃべりを楽しんでいました。
「愛好会」から「合唱団・合奏団」へ
――「愛好会」から合唱・合奏をやる団体になったのはどんな経緯でしょうか。
親松:この【図版3】にある演奏会の数年前にはもう合唱団は出来ていたと思います。15-16人はいらしたでしょうか。
【図版1・2】の年末懇親会の時には、もう合唱団のようなものがあって、みなさんで歌っていましたよ。
合奏のほうは、私と娘でちょっとみなさんの前で演奏をしたときに「あと2-3人いればカルテットが出来るね」と参加者たちから話が出て、その流れでできたんです。
さきにふれた村山さんが奔走して合奏をやりたい人を集めて下さり、私も当時は藤沢市民交響楽団(藤響)にいたので参加者を募りました。
江ノ電沿線新聞の社長さんだった吉田克彦さんにもお声かけいただきました。
ちなみに、この吉田社長はモーツァルトについての造詣が深く、モーツァルト協会の会員ケッヘル番号もお持ちでしたよ。
井上太郎さんも「日本中にモーツァルト愛好会は数あれども、オーケストラと合唱団を持っている愛好会は他にはないよ」と喜んで下さいました。
――モーツァルト愛好会合奏団の初期のメンバーはどんな方々でしたか。
親松:指揮は中島良能さんが引受けて下さいました。中島さんへの指揮依頼は愛好会の井上太郎さんからの依頼だったと思います。
ヴァイオリンは私と、さきの江ノ電沿線新聞社からお声かけがあった矢野雅代さん、ヴァイオリンの先生の高橋幸代さんのお弟子さんだった木下利子さん、それに村山さん、でした。
チェロは蛯子さん(故人)です。ほかに女性が3人くらいいましたね。やや後に、湘南アマデウス合奏団の初代団長になる大森英二さん(故人)が参加されました。
初期の練習は指揮の中島さんのお宅の居間をお借りしてやっていたんですが、中島さんから「こんなところでやっていては発展がないよ」といわれて(笑)、村岡公民館に登録して拠点を作りました。
私などは「モーツァルトの三重奏、やろうよ」と大乗り気で、楽しかったですね。これは【図版3】にある演奏会のかなり前のことです。
――中島さん宅の練習から村岡に拠点を置いた合奏団が出来て、それから【図版3】の演奏会に至るにはかなり大きなメンバーの拡充が必要になりますね。
親松:そうなんです。この演奏会のために江ノ電沿線新聞社の吉田社長が新聞に無料の奏者募集広告を出してくれました。
【図版3】の演奏会の合奏団については、中島さんが別に主催されていた湘南エールアンサンブルが再編される時期に重なり、このアンサンブルにいらした方々が私たちの演奏会にエキストラで来て下さったんです。さきにふれたヴァイオリンの高橋幸代さんや現・コンミスの矢追美晴さんもいらして下さいました。
――「モーツァルト愛好会」の合奏団からどのようにして「湘南アマデウス合奏団」が生まれたのでしょうか。
親松:「愛好会」はもともと音楽鑑賞団体であり、演奏という役割はありませんでした。
【図版3】の演奏会のときは「湘南モーツァルト愛好会合唱団・合奏団」と称していましたが、その後、私はよく存じ上げませんでしたが、愛好会と合唱団・合奏団は距離を置くようになりました。
こうして「愛好会」から分かれて「湘南アマデウス」が出来たんです。このあたりの経緯は複雑です。
初代団長は大森英二さんにお願いしました。
大森さんは学習院のオケで活躍されており、さきの「愛好会」から「湘南アマデウス」に移る頃に団長に擁立されました。正式には1996年のことです。
――こうしてみると「湘南モーツァルト愛好会」から今日のアマデウスまで一貫して参加されているのは親松さんだけ、ということになりますね。
親松:そうですね。「湘南アマデウス」は、さきの湘南エールアンサンブルにいらしたプロの方々とも一線を画して、アマチュアオーケストラとして立ち上がりました。
このあたりの距離感も湘南エールアンサンブルの再編とも関わっていました。まあ、私なんかは能天気なんで、ともかく弾くのが楽しくて(笑)、こうしたゴタゴタとは無縁でしたね。
――アマデウス合奏団が発足してからの思い出はいかがでしょうか。
親松:合奏も良いけれど、仲間とアンサンブルを楽しみました。
みなさん「この曲やりたい」という熱意は一杯お持ちでね。それが発展して団内演奏会になりました。ル・クラシックとか、あちこちでやりました。
ホルンの富坂さんという方が中心になって運営して下さいましたね。
第一回は、たしか横浜のイギリス館で、さきにふれたヴァイオリンの高橋先生をお呼びしてモーツァルトのコンチェルタンテをやりました。すばらしく、また楽しかったですね。
――最後に湘南アマデウス合奏団にひと言お願いします。
親松:「この曲、やろうやろう」と言ってみなで集まって演奏するというのが、アマデウスの魅力ですね。
私は本当に幸せでした。ベートーヴェンをやるのも良いことですが、モーツァルトの曲は違う、やはり神の領域ですね。
モーツァルトはまた、自身でも手紙を多く書き遺していて、研究書も多く、こうした読書の楽しみも与えてくれますね。
本当にアマデウスに参加させていただき、人生楽しかったです(笑)。
――本日はすてきなお話をありがとうございました。